元監察医で作家の上野正彦(うえのまさひこ)さんをご存じでしょうか?
過去に数々の事件の真相を暴いてきた凄腕の監察医でありましたが、視点を生かした推理小説を書く作家でもあります。
また、経験豊富で評価も高いため、度々講演に呼ばれる方でもあります。
今回はそんな上野正彦さんの息子や結婚した嫁妻などの家族について、担当した昭和の大事件、出身大学などの学歴、さらに2020年今現在のプロフィールや経歴について調査しました。
それでは詳しく見ていきましょう。
目次
上野正彦の生い立ちと実家の家族について
上野正彦さんは1929年に茨城県に生まれ、小学6年間は北海道美国町で過ごしたようです。
戦時中なので恐らく疎開などでしょうね。
父親は美国町の開業医として無償で多くの診療を行ったことから名誉町民になったようです。
偉大なお父さんですね。
上野正彦さんも素晴らしいお父さんの姿を育ったようです。
美国町には旧制の中学校がなかったため、上京しました。
その後は父親の影響からか、医学の道に進むことになります。
上野正彦の学歴(出身大学)
上野正彦さんの学歴(出身大学)を見てみましょう。
大学は東京都大田区になる、東邦医科大学です。
現在も存在する私立の大学になります。
当たり前ですが、医学部なので偏差値は非常に高いですね。
1950年に創立された大学で、上野正彦さんが入学されたのが1954年なので、当時は出来立てでとても綺麗だったと思います。
立地的なところや設備的なところが大学選定理由ではないでしょうか?
大学卒業後は日本大学医学部法医学教室に入ります。
すぐに職に就かず、さらに学問に励んだということですね。
法医学教室とは死因の究明に必要なあらゆることを学ぶところになります。
監察医になるために必要な知識も学べます。
お父さんは医者さんでしたが、自身は違う道を選びました。
別の道を選んだ理由については本人は話しておりませんが、上野正彦さんは定説を覆すような独自の考えを展開しているため、恐らく当初の定説に問題意識を持っており、それを変えていきたいという思いを持っていたのではないかと推察します。
その考え方に世間からは高い評価を得ております。
上野正彦さんは1959年に日本大学で博士号を取得し、同年に東京都監察医務院に入り監察医になりました。
上野正彦の息子や結婚した嫁妻など家族は?
上野正彦さん「死はナッシング、体と精神は滅びてしまう、と考えていました。でも、妻は今も、私の心の中にいて死んでいない、つながっています。そして、あの世とやらで、妻に再会するのを楽しみにしている自分がいるのです。死に向き合い、考え続けてきた私でも、矛盾なく死を語ることはできません」
— hypocrite (@DieT_oLive) October 12, 2010
上野正彦さんの息子や結婚した嫁妻など家族について見てみましょう。
まずは上野正彦さんは1959年に結婚して二人の子供がいます。
奥さんの名前は章子さんです。
俳人の上野章子さんとは別人ですのでご注意下さい。
上野ご夫妻は東京都杉並区に在住であり、章子さんは東京都杉並区の中学校を拠点に住民のスポーツや芸術を楽しむ地域活動に熱心に取り組んでいたようです。
みんなを引っ張っていくようなタイプだったのですね。
そういう方がいると本当に有難いですよね。
1987年からは杉並区の区議を4期16年務めたようです。
在任期間がとても長いですね。
人望がいかにあるかがよく分かります。
周りの方からはとにかく色々と気配りができる、活発で明るい方だったと言われております。
奥さんは晩年も一人で自転車であちこちに行くほど元気だったようですが、2006年1月頃に急に荷物を持って階段が登るのがつらいと言い始めます。
不思議に思い、お医者さんに見てもらうと末期の胃がんで、全身に癌が転移しており、余命は半年の宣告をされました。
本当に突然の出来事だったようです。
奥さんは不思議と全く取り乱さなかったようです。
しかしながら、上野正彦さんは約2万人の死と向き合ってきたにもかかわらず、冷静に受け入れられなかったようです。
この時に初めて、身内は違うという思いを自覚したようです。
分かってはいても、直面しないとイメージするのは難しいということですね。
入院中の奥さんも落ち着いた雰囲気でしたが、初日から上野正彦さんに「病院で一緒に泊まって欲しい」と話していたようです。
上野正彦さん自身は病院に仕事の相談に毎日のように来客が来るほど多忙でしたが、それを承知の上でのお願いです。
奥さんは落ち着いてはいても、自身の死期が近づいていることを認識していて、内心は不安がとてつもなく大きかったのだと思います。
上野夫妻は結婚して40年以上お互いに忙しく、中々一緒に過ごす時間はありませんでしたが、ゆっくりと過ごす時間が増えたようです。
奥さんも一緒にいると心が安らいでいるようだったようです。
お子さん達もお見舞いに来たようですが、上野正彦さんを誰よりも頼りにしており、一緒にいて欲しいという感じだったようです。
これまで、あまり見せることは無かったようですが、上野正彦さんが一番の心の支えだったということですね。
そして、2006年4月21日、奥さんはに癌で亡くなりました。
享年71歳でした。
最後奥さんは穏やかな顔だったようです。
きっと、多忙な中、上野正彦が一緒にいてくれたことはとても嬉しかったのだと思います。
上野正彦さんはこれまで人が亡くなると体も精神も滅びると考えていたようですが、自分の心の中に奥さんが確かに生きており、あの世で奥さんと再会を楽しみにしている自分がいると話しております。
死に何度も向き合ってきた上野正彦さんも死を矛盾なく語ることはできないと思っているようです。
上野正彦が担当した昭和の大事件とは?
あしたのアンビリーバボー、
上野正彦先生のじゃん
上野先生の著書好き
でもまだ死体は語る2は読めてない…( ; ; )
それ以外の上野先生の本は多分殆ど読んだ…かな…? pic.twitter.com/UEm3B2EMSI— ねずみ飼いたいけどうちにはトド猫 (@my_cat_is_TODO) May 13, 2020
上野正彦さんが担当した昭和の大事件とは上野正彦さん著の事件簿「死体は語る」の中にある、1982年に森林公園の林道で起こった事件になります。
疑われた暴走族にアリバイがあったようですが、上野正彦さんはその真相を監察医として暴きました。
上野正彦の2020年今現在のプロフィールと経歴
上野正彦さんの2020年今現在のプロフィールと経歴を見ていきましょう。
- 名前:上野正彦(うえのまさひこ)
- 年齢:91歳(2020年5月現在)
- 生年月日:1929年1月1日
- 出生地:茨城県
- 出身:北海道美国町
- 所在地:東京都杉並区
- 学歴:東邦医科大学卒業、日本大学医学部博士号取得
- 職業:法医学者、医療評論家、作家
1954年に日本大学医学部博士号取得後、東京都の文京区にある東京都監察医務院に入り、監察医となります。
監察医の研修を始め、検視に携わる方の実習・研修も行っているところになります。
管轄エリアは東京都23区内全てであり、東京の総本山と言えそうです。
1981年には厚生労働省の医道審議会委員に抜擢され、1984年には東京都監察医務院の院長、さらに杏林大学医学部の客員教授を務めるなど、世間から評価が非常に高い方です。
院長は定年前の1989年に自ら退官しております。
退官後に執筆した「死体は語る」が大ベストセラーになります。
恐らく、自身の考えを伝えるには本で書いて多くの人に読んでもらうというのが効果的と考えたのではないでしょうか?
その後、日本推理作家協会会員になり、法医学者の視点から多くの本を執筆しております。
上野さんの本は全て読んでいるというほどのファンの方も多いようです。
テレビや雑誌などの露出も増え、独自の考えを展開していきます。
また、凄腕の監察医だったため、検視の相談も度々来るようです。
法医学の分野で問題意識を持ち、強い信念を元に世の中を変えてきた人物と言えそうです。
かっこいい生き様だなあと思います。
以上、調査結果でした!